聞き書き七ヶ浜

聞いてけさいん、話してけさいん。七ヶ浜のいまむかし。

歴史講座「湊浜薬師堂」

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今日は七ヶ浜町歴史資料館主催の歴史講座『湊浜薬師堂』に参加してきました。

講座の内容は、平安時代末期から鎌倉時代初期に彫られたという「摩崖仏」の公開と薬師堂周辺の散策。歴史資料館職員の解説付きなので、これは行くしかない!と応募しました。受講者は13名。小春日和の暖かな天候に恵まれ、楽しい歴史散策になりました。

 

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湊浜地区の皆さんのご協力があって実現した講座です。区長さんをはじめ、薬師堂と熊野神社、弁天社の総代の方も一緒にナビゲートしていただきました。

どんどんSNSで広めて欲しいということなのでご紹介しますね~(^O^)/

 

湊浜薬師堂は、小誌11号「お社めぐり」で掲載しています。その文章を交えながら、ご紹介していきますね。

国府多賀城の港(竹の湊)として栄えた湊浜の鎮守であり、海上安全を祈願して祀られた「湊浜薬師堂」です。

いい伝えによれば、9世紀半ばの慈覚大使(円仁)が東北巡錫(じゅんしゃく)の折、宮城郡内三か所に一夜にして彫り上げた薬師像の一つとのことです。

その三薬師とは、岩切の東光寺「宵の薬師」、利府菅谷「夜中の薬師」、湊浜の「夜明けの薬師」の三か所で、それぞれ彫りあがった時刻によって名付けられたと伝えられています。

 

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このお堂の裏手の岩壁には、お堂からの渡り廊下と覆い屋で守られた七体の薬師如来が彫られているそうですが、現在は公開されておらず、町の歴史資料館に複製が展示されています。

そんな中での御開帳だったので、町内外の歴史ファンが集まったわけです。

さて、覆い屋の中を拝見しましょう。

 

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ご本尊の摩崖仏とご対面です!本物を見ることができて感動でした!

 

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現存する薬師如来像と二基の五輪塔。奥にも像があるのですが、風化が進んでお姿形が分からない状態になっています。

この摩崖仏像は、毎年4月の例祭で御開帳されているとのこと。お薬師さんは、薬壺を持ち病気を治す仏様として知られています。今年は特にコロナの終息を祈願されたという区長さんのお話です。

 

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こちらは覆い屋手前の拝殿。江戸時代中期の建築といわれています。

中も拝見させていただきました。わげすたーず(若い衆)は古い写真に食らいついてましたねぇ~♪

 

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・・・あれ? 正面の像は何だろう? 今度、どなたなのか聞いてきますね。

左側には火炎光背の彫り物があります。お不動さんはどちらに?

東日本大震災の前には、お堂に向かって左隣にトタン葺きのもう一軒のお堂が建っていて、奥の方に高さ60センチほどの赤い火炎を背負ったお不動さんが祀られていましたが、今その場所にお堂は無く、物置が2基置かれています。

町誌などによれば、この境内には245年前の安永3年までに福寿山延命寺自在院というお寺があり、その本尊が木彫り二尺の不動明王像で、廃寺後は薬師堂境内に安置されていたとのことで、以前に見たお不動さんがそのご本尊だったのではないかと想像しています。

現在、お不動さんは火炎光背隣の木箱にお休み中だそうです。

 

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薬師堂のそばに佇むのは、慈覚大使(円仁)のお手植えと伝えられるカヤノキ。町の文化財に指定されています。

このカヤノキは、幹回りが4.6メートルにも及ぶ大きさだそうです。これほどの大木は宮城県内でも珍しいとのこと。樹齢は正確にはわからず、700~800年ではないかと推測されています。

ここ湊浜薬師堂も、東日本大震災による津波の被害にあった場所です。およそ3メ―トル、お堂の壁半分の高さまで浸水しました。カヤノキも同様に津波を被り、塩害で樹勢が衰えたものの、地区の皆さんの努力で息を吹き返しました。新芽も出ているそうです。

周囲の崖にも摩崖仏や横穴古墳群が残っています。未だ全部の調査がされていないとのことで、今後また新しい発見があるかもしれませんね!

過去記事もご覧ください。

kikigaki7.hatenablog.com

 

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薬師堂から歩いて移動します。日本武尊(やまとたけるのみこと)が身を清めたと伝わり、眼病や傷、神経痛などへの効能も認められた鉱泉を横目に、深川沼(弁天沼)弁天島の脇を進みます。

この界隈は、国府多賀城の港「竹の水門(たけのみなと)」として栄えていました。

飛ヶ崎と相馬の鵜の尾岬までの間にはまったく岩場が無く、仙台新港の工事が始まる昭和40年代の初めまでは、はるか南に向かい長浜と呼ばれた白砂の海岸が延々と続く雄大な景観が広がっていました。

また、江戸初期に七北田川(冠川)の川筋が移されるまで、ここ湊浜が冠川の河口で、古代多賀城国府と直結する港として大いに賑わっていたそうです。

湊浜の鎮守であり、海上安全を祈願して祀られたのが湊浜薬師堂です。

 

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弁天堂付近に到着です。コンビナート手前(写真上)には弁天沼が広がります。

この辺りが船着き場であったとされる「船戸」という地名は残っていますが、現在は盛り土がされて河口であった面影は残っていません。

ここで講座は終了しましたが、地区の皆さんの案内で弁天堂を参拝しました。

弁天堂は、3号目でご紹介している神社です。

湊浜の弁天社の丘も河口が塞がって入江の小島が陸続きになったらしく、以前は西側の崖の下に牡蠣殻がついていたと、七ヶ浜町誌に載っていました。

 

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こちらの弁天様を信仰され、お掃除に来られている隣町の女性の話などを教えて頂くなど、歴史談義の他にもいろいろな話で盛り上がりました。

印象に残ったのは、移転前の町並みのことでした。歩きながら「ここにアパートが並んでたんだよねぇ」「冷鉱泉を沸かした銭湯があったんだよ」などなど。

この辺りは仙台新港の開発で全戸移転した地区で、昔は弁天社の周りにも民家が立ち並んでいましたが、今では一軒も残っていません。木立と藪に囲まれた境内は高台ながら周りは見渡せず、梢に切り取られた空だけがくっきり見えていました。

(中略)商いと芸能の神様で、海上安全の守り神でもある弁天様のお社にしては、静かな静かな佇まいです。

過去記事もご覧ください。

kikigaki7.hatenablog.com

 

専門家や地区の方々のお話を聞きながら、楽しい歴史散歩になりました。物の見方が変わりますね。また機会があったら参加したいです。