聞き書き七ヶ浜

聞いてけさいん、話してけさいん。七ヶ浜のいまむかし。

堀さんご夫妻

お久しぶりです。朝夕めっきり涼しくなりましたね。日中は気温が高く、未だ夏の名残りがある七ヶ浜です。しかし、今日はどんよりとした曇り空になり、肌寒い一日になりました。あと数日で11月ですものね。

今日は、17号の「手と手 ~七ヶ浜を支える人たち~」からボランティアさんのお話です。七ヶ浜町で支援活動をされた堀勝義さん、堀志津さんご夫妻(仙台市在住)をご紹介します。

堀さんご夫妻のご出身は、和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん)。勝義さんは潮岬(しおのみさき)がある串本町、志津さんは那智勝浦町でお二人とも海の近くで生まれ育ちました。勝義さんは、宮城県に大学院入学のために来られ、東北大学抗酸菌病研究所(現加齢医学研究所)に所属しました。

勝義さんは、基礎医学研究のかたわら故郷・串本町の歴史を調べ、退職後に『近現代の串本史探索』を上梓しました。研究者の目線で、近い将来発生が確実視されている南海トラフ地震について、七ヶ浜町でのボランティア活動の経験から言及しています。

勝義さんの著書に触れながら、震災当時の状況を振り返りました。その一部を抜粋しましたのでご覧ください。

 

勝義さんは、昭和53年発生の宮城県沖地震も経験されています。東北大学抗酸菌病研究所で地震に遭遇しました。故郷の串本町地震が少ない場所だそうです。

 和歌山県南部は、頻度だけからいうと地震が少ない場所だそうですね。しかし、巨大地震は100年から150年に1回起こっています。それが南海トラフ地震です。発生のたびにものすごい被害があったことが記録されていますが、100年、150年に1回となるとそれを経験した人が生きていないんです。

 ここ(宮城県)は、大きな地震は30年に1回って言われていましたね。また、明治三陸地震(1896年)で大津波に遭ったり、チリ地震(1960年)でも三陸は大津波による甚大な被害を受けています。30年に1回だとその被害や津波を体験した人が大勢いるんですよね。だから、建築や町の重要施設の設計や配置にその体験が活かされるのでしょう。本や文献の知識だけではなく、体験者が生きているということが決定的に重要なんだと思います。(中略)

 串本に橋杭(はしぐい)というところがあります。突き出た杭のような岩が海に向かって続いているのですが、その岩の下の地面には数トンから数十トンもある丸い岩がいくつも転がっています。東日本大震災以後、それが大津波で転がってものだと考えられ、注目されています。

聞き書き七ヶ浜17号「手と手」より)

 

この「橋杭」の風景は、堀さんの著書の表紙を飾っています。ご自身の撮影です。とても美しいこの眺めが、古い時代の巨大地震と大津波によるものだと思うと複雑な気持ちになります。

堀さんが七ヶ浜町に来て気づいたのは、「公共施設が高台にあること」だったそうです。串本町は土地が狭く、埋め立てて土地を広げていき、町役場や病院、学校など多くの公共施設が埋立地に移転・建設されました。しかし、東日本大震災以後は見直しされて、高台への移転が活発になったそうです。

 

次に、七ヶ浜町での支援活動についてお伺いしました。

堀さんご夫妻は、週1回のペースで約2年間活動されました。帰省した娘さんからの情報で、ひょうごボランタリープラザが主体になって開設していたボランティアインフォメーションセンター(当時、東北自動車道路泉PAスマートICに設置)を訪問し、七ヶ浜の支援を決めたそうです。

 4月から5月の大型連休の時でした。南三陸とかはもう受け入れないということでした。その時、受入れてくれるのは、七ヶ浜と岩沼と亘理の3カ所だけでした。自宅から一番近い距離にある七ヶ浜へ行くことにしました。

聞き書き七ヶ浜17号「手と手」より)

 

勝義さんの著書には、「ボランティアに来た人は、同じ場所に行く」と書かれています。これは七ヶ浜町と同じ海辺の町である串本町の人たちへ参考になればという思いがありました。

 七ヶ浜はボランティアを何人でも受け入れましたよね。ところが、最初断った町もありました。どれだけでも受け入れることができたのは、七ヶ浜に浜がいっぱいあるからだと思います。人数が多い日には、センターは浜に流れ着いたものを片付ける作業に重点を移し、常時、第一目的である損壊した住宅の片づけを継続できる態勢を維持していたのだと思います。

 ボランティアに参加して思ったのは、ボランティアは最初が肝心で、はじめて行った場所で人と知り合い、そこの地形などがわかってくれば、また同じ場所に行く傾向があるということでした。ボランティアが来てくれるという時には断ってはいけない、断ったらもう来ませんからね。

 そして、いつ行っても十分な仕事があることがもう一つ大切なことです。その点、浜は片付けても片付けても新たな漂着物が来ますので仕事がなくなるという心配がありません。だから、同じボランティアが何度も七ヶ浜に足を運びました。浜は、多くのボランティアを七ヶ浜から離さない場所になっていたと思います。

聞き書き七ヶ浜17号「手と手」より)

堀さんご夫妻は、被害を受けたお宅の片付けや泥掻き、写真洗浄、集会場のお茶っこ、農地復活大作戦など、様々な支援活動にご協力いただきました。石碑修復にも参加されています。過去記事もご覧ください。

kikigaki7.hatenablog.com

また、石巻の大川小学校の清掃と長面(ながつら)地区の行方不明者捜索にも協力されています。

 

そして、著書『近現代の串本史探索』について、どのような思いでまとめられたかお伺いしました。小学生の時、学校の先生の雑談で聞いた串本空襲の話が原点だそうです。

 串本は大阪、神戸、名古屋を空襲するためにマリアナ諸島から発信するアメリカの大型爆撃機B29が方向転換する地点となっていました。そして、爆撃のあとも串本上空を通って帰るのですが、途中、おみやげとして爆弾を落としていったというのです。なぜ何度も串本を爆撃する必要があったのかという疑問が残りました。(中略)なぜ歴史の風化が起こるのかを考えてみることも執筆の大きな動機になりました。

 私は悲惨を極めた戦争も今度の大津波も世代単位で風化が進み、体験者がいなくなった時点で話だけが残る、だからその時にあった事実だけでも正確に記録を残しておく必要があると考えています。

聞き書き七ヶ浜17号「手と手」より)

勝義さんの著書に、地形の「変化」を考えるとき、ご専門であるガンの研究に類似点があると書かれています。ガンが誘導する腫瘍血管のネットワークの変遷を観察したときと同じ現象だと感じたそうです。

著書に掲載されている地図は、古地図をトレースし、ご自身が補足を入れるなど手直しをされていると伺いました。一つ一つに気が遠くなるような作業をされ、その仕上がりの精巧さに驚きました。まさかご自分で書かれているとは! 丁寧な仕事ぶりにお人柄を感じます。年代ごとに図や資料で歴史を追っていくとわかりやすいですね。

 

 私が本を書くときに重視したのは、証言(聞き書き)、歴史資料、文献、写真などでしたが、戦時中の証言をしてくれた人は、皆80代になっており、「誰々さんが生きていたらよく知っていたのに」という話も多かったように思います。やはり聞き書きというのはいつでもできるという性格のものではなく、ベストのタイミングがあるようです。

 聞き書きの大切なところは、時代が過ぎ、その時代の生き証人が誰もいなくなったあとも、その当時の人が何をどのように感じとり、どのように考え、行動したのかがわかるところだと思います。われわれはしばしば現在の価値観で過去を考えることがありますので…。

聞き書き七ヶ浜17号「手と手」より)

私自身も記録に残したいという同じ思いで小誌を作成しています。堀さんの足元におよびませんが、細々と続けていこうと思いました。

他にも、七ヶ浜町で出会った人たちとの交流についてもお話しいただいています。

 

最後に勝義さんの著書について。

現在は、電子書籍のみの取り扱いとのことです。後半に東日本大震災七ヶ浜町でのボランティア活動について書かれています。

先日、七ヶ浜町図書センター(町生涯学習センター内)に書籍版を寄贈していただきました。ありがとうございます!