4月になりましたね。暖かな日が続いている七ヶ浜町です。
入学や入社、異動などなど、新年度のスタートでドキドキの方も多いことでしょうね。フレッシュな感じがまつぽい(眩しい)です!
さて、今日ご紹介するのは17号「お社めぐり」に掲載の 熊野神社 です。湊浜の丘の上に鎮座しています。住所は、社名の熊野になっていることからも、古くから崇敬されたお社と推察されます。
まず、筆者(ダンナです)の思い出話から始まりますが、よかったらお付き合いください。昭和の頃の湊浜や松ヶ浜の様子が書かれています(^O^)/
湊浜との思い出の初めは、昭和39年の夏。多賀城に住む小学1年の私は、松ヶ浜の知人宅の子供たちといっしょに漁港の砂浜から飛ヶ崎の浅瀬を回った湊浜の海岸で遊んだのを覚えています。
次は、昭和44年から46年までの3年間。元旦の夜明け前、私と伝上山の仲間たちは、連れだって歩き、仙台新港の工事中で一面のススキ野原だった北新田あたりを通って、中野と湊浜の町境付近の海岸で初日の出を拝んでいました。
そして、昭和53年の6月、梅雨入り直前の猛烈に暑い日、友人の車で湊浜の海岸に向かった私たちは、誰もいない砂浜からテトラポッドに泳ぎ渡っての浜遊びを楽しんでいました。
思えば物心ついて以来、湊浜の海岸には少なからぬ思い出があるのですが、湊浜地区の町並みや人々の暮らしの気配に触れた記憶がありません。
それは、ひとつには記憶の舞台が砂浜限定だったことと、そこへのアプローチが浜づたいだったこと。
ふたつ目は、陸から訪れた頃には、町並みが消滅していたことによるのだと思います。(聞き書き七ヶ浜17号「お社めぐり」より)
この画像は、震災前の蒲生干潟(仙台市宮城野区)。日本一低い山「日和山」の上から仙台新港、湊浜方向を臨む。かつては繋がっていた砂浜です。私にとっても蒲生の海岸は思い出の場所。小さい頃に泳ぎに行ったり、釣りを楽しみました。懐かしい!
七ヶ浜の皆さんから伺ったお話を過去記事からどうぞ。
さて、本文に戻ります。
(中略)古く奈良時代には湊浜から流れ出ていた七北田川の河口に港が置かれ、陸奥国府多賀城の外港として栄え、いくつもの堂宇が軒を連ねた時代もあったと知りました。
江戸時代になると、七北田川の川筋が南の蒲生方面に付け替えられたため河口が埋まり、港としての役割は終わりとなりました。
そして、その後は昭和の半ばを過ぎるまで静かな漁村として穏やかに時代は流れたのですが、昭和42年、南に境界を接する仙台市の中野地区を中心に仙台新港の建設とその周辺の一大開発工事が開始されたことにより、にわかに騒然となったのです。
地区のすぐ南に石油基地や火力発電所が建設され、生活環境の悪化も懸念されました。
その結果、湊浜の人々は、松ヶ浜謡地区への集団移転を決め、昭和51年までには浜沿いの全世帯の移転が完了したのです。(聞き書き七ヶ浜17号「お社めぐり」より)
県道の松ヶ浜交差点から南に入り、板碑群の向いの道をのぼった突き当りを左に折れると住宅の間に幅5メートルほどの空き地があります。
空き地入口の右端に古びた木製の鳥居と石製の幟立てが一対設えられています。
お参りしたのは9月の晴れた日で、この夏の猛暑が居座っていましたが、鳥居をくぐって30メートルほど進むと、左右からの木立が道を覆い、涼しい日陰をつくっていました。
木立に入った右手の奥に、トタン葺き、トタン壁の覆い堂に収められた高さ1間半、間口1間ほどの拝殿が鎮座しています。(聞き書き七ヶ浜17号「お社めぐり」より)
地域の皆さんに守られている小さなお社です。
境内には八大龍王、雷神、金毘羅さんの板碑があります。
はってらさまの小さな碑もありましたよ。
皆さんも機会があったら、一度お参りしてみてください。