聞き書き七ヶ浜

聞いてけさいん、話してけさいん。七ヶ浜のいまむかし。

畑仕事

今日は、17号に掲載の「いまむかし」から「畑仕事」について。

写真は、震災前の菖蒲田浜字石堂辺りの田園風景です。七ヶ浜国際村ホールの屋根がひょっこり見えますね。ちょうど田植えのシーズンを迎えたところでした。

海のイメージが強いわが町ですが、昔から田植えや畑仕事も行われています。漁業と農業、兼業の方が多かったお話を聞きました。ただ、河川が無いのでため池が多いです。昔は入江だった阿川沼は大きなため池なんですよ。主に水田の農業用水として使われています。

それでは、七ヶ浜の皆さんから伺った昔ばなしの一部をご紹介しますね (^O^)/

 

畑仕事

【自給自足】

・昔は漁もやって、畑を作る人が多かったので自給自足だった。

・買い置きしない。あるもので料理すっから。

 

【田んぼ】

・昔の田植えは、6月にやっていた。

・田植えが終わると、まだ時間があったから、豆まきや土かけに行かさった。

・謡(松ヶ浜)の辺りは山や田んぼだった。湊浜が仙台新港の埋め立てで移転するのに団地になった。

 

【麦畑】

・6月は麦刈りの季節。野外活動センターのところは麦畑で一面金色になった。

 

【桑畑】

・キャンディー屋(菖蒲田浜の屋号)の前は桑畑だった。

 

【ニンニク】

・昔は作っている人が多かった。5月の連休に干して箱詰めさせらった。(菖蒲田浜)

・震災前までけっこう作っていたが、今はほとんど作っていない。

・うちでも作っていた。小さい頃に大きさの仕分けを手伝ったのを憶えている。既定の大きさの型に当てはまるかどうか乗せて計った。(以上、吉田浜)

・昔、作っていた人がいた。(花渕浜)

 

【肥料】

カジメ

・カジメは肥料になったの。硬くてね、食べ物ではないと思ったの。だって、浦の方(代ヶ崎浜東宮浜)では食べないもの。

・「たんがら」って言って、木を上手に渡して大きめのカゴにして、わらで編んで一つのカゴにする。それにカジメやモクだの入れて運んだもの。(以上、代ヶ崎浜

 

シャコエビ

・シャコを肥料にする時代があった。(取れ過ぎて)売り物になんなかった。子どものおやつにもして売りに出さなかった。

 

聞き書き七ヶ浜17号「いまむかし」より)

 

 

【みそ豆】

・みそ豆(みそにするために柔らかく煮た大豆)をどこのうちでも煮たの。豆を煮る釜を持ってたの、あるところにはね。五右衛門の浅いやつ、うちにもあったから憶えてる。

・「あそこのうちで明日、豆 煮っとや」って、ちっちゃいザルっこを持っていくの。用意しとくの。そして、皆で行って「けらいん」って言うのね。どこのうちでもおやつにくれたの。

・うるかしてみそ豆を煮る。青っぽいような、黄色っぽいような硬さが残ってるのをもらった。そのまま、塩っこでもかけたかな。裁断機でちいちゃくこなすのね。みじん切りくらいの大きさになったのに、貴重な砂糖をかけてもらって甘くして食べた記憶もあるね。(以上、代ヶ崎浜

 

【戦時中】

・戦争中、七ヶ浜は田畑が多かった。食べるために切り開いたようだ。今の方が森林が多い。航空写真で見ればわかる。海っぱたに住んでる人の方が、食べる物が多かったのでは? 海藻とか魚介とか。

・大木囲貝塚は、終戦前まで畑とかもあった。開墾してほっくり返して。貝塚があることは知っていた。昭和20年以前は、文化財のことを考える余裕がなく、食べるために必要だった。

 

聞き書き七ヶ浜17号「いまむかし」より

 

上記画像は、菖蒲田浜字新小塚と松ヶ浜字上納の田んぼ。

 

これは、震災後、町内の田んぼが復活したときに撮った写真(2013.6.16 撮影)。七浦堤や汐見小学校の前に広がる水田です。この辺りの農地は、東宮浜、湊浜、松ヶ浜、菖蒲田浜と地区が入り混じっています。

津波が押し寄せ、多くのガレキが流れ着いた当時を思うと夢のようでした。嬉しくなって記録したことを憶えています。たくさんの人たちの手助けがあったことに感謝ですね。